良い食品を作る会とは
食べられるものは何でも食べた戦中・戦後、そして「もはや戦後ではない」(昭和31年経済白書)
高度経済成長期は、日本人の暮らしやものの価値観を大きく変えました。
なかでも日本の食(食品の品質から食べ方まで)を激変させたのが、この30年でです。
絶対的な原料不足の戦中・戦後の中で開発された、たとえば酒なら三倍増醸酒、醤油なら化学醤油(アミノ酸醤油)などは、戦後に続く高度経済成長期の大量生産・大量販売の時代のなかで技術革新で全盛を誇り、現在も作る側・使う側ともにその経済性から一定のシェアを占めています。
日本の食文化を代表する食品も、この30年で変質され、元に戻りきれないままいまに至っています。
「大きいことはいいことだ」に象徴される大量生産時代の食生活の変化の大きな特徴は、「簡単・便利」である。その主役を担って登場したインスタント加工食品は、そのトップをきって発売された「日清チキンラーメン」(1958年)を皮切りに、電子レンジの普及・スーパーマーケットの隆盛などを背景に急成長をとげ、いまなお「簡単・便利・安価」な食品開発はとどまるところを知らない。
低価格・簡単・便利な食品の製造に不可欠な食品添加物の激増とともに、1960年代から本格化する農畜産物の輸入増大のなかで、食の安全性は大きく揺らぎ、また日本の伝統食品の原材料や製造法、その結果としての品質は本来のものからかけ離れたものとなっていきます。
一方、この時期三大食品公害(森永ヒ素ミルク中毒事件、水俣病、カネミ油症事件)が発生し、食の安全性を求める消費者運動も盛んになり、同時に本物の食品への関心や共同購入の動きも活発化する。そして1973年の石油ショックを契機に、世の中は「真の豊かさ」をキーワードとする時代へと移りました。
「良い食品を作る会」はこうした食をめぐる
激動のなかから生ました。
その時代の変換期の1974年12月、貿易業界の専門誌「貿易の日本」(名古屋市)で「消費者問題」特集号が企画され、誌上で「食品産業とその良心の周辺」をテーマに磯部晶策氏(食品コンサルタント・岩波新書「食品を見わける」著者)、天野慶之氏(東京水産大学元学長・農学博士)、松田道雄氏(評論家・医学博士)による座談会が行われ、この特集号の巻頭レポート「食品メーカーと消費者をめぐる“良心”と“情報”の問題」とともに反響をよびます。
そこでは「いま良心的メーカー相互の協力、情報交換、消費者との対応を組織すべきとき」との呼びかけがされ、それに応える動きが始まっていた。全国には戦中・戦後から大量生産時代のきびしい状況をくぐりぬけ、一徹に本来の食品作りを続けているメーカーが点在していました。
同誌発行直後そこで取り上げられたメーカー7社が愛知県蒲郡市に集まり、翌1975年3月「良い食品を作る会」を8社で立ち上げます(東京)。
会の理念である「四原則」
①原料の厳選②加工段階の純正③一徹で、時代環境に曲げられることのない企業姿勢④消費者との関係の重視――は、年数回行われる会員持ち回りの総会、第三回の長崎総会で決議され、以来会のバックボーンとなっています。
そして四原則と一対である「良い食品の四条件」
①安全であること②ごまかしのないこと③味の良いこと④品質に応じた妥当な価格――が、会員の食品作りの基本となりました。同会の四原則・四条件は、会結成の契機を作り、のちに同会主宰となった「食品を見わける」(1977年刊・岩波新書)著者・磯部晶策氏の考え方が大きな役割を果たしています。
この四原則・四条件にもとづき、各会員の認定商品が決められます。
この会は「良い食品を作るために研究努力する」研修組織であり、会員相互の原材料の供給や技術交流からより質の高い認定商品が開発される一方、問題が起こった場合は休会さらには退会を余儀なくされます。
調味料・酒から漬物・和洋菓子・水産加工品・卵・乳製品にいたるまで多岐にわたる日本全国の「良い食品」作りをめざす食品メーカーで、同会会員は百社をこえる時期もあったが、諸般の事情から1993年「良い食品を作る会」を継承する会員と、理念を継承しつつ新組織「良い食品づくりの会」(1997年結成)に加入する会員などにわかれ活動しています。
従来の「良い食品を作る会」を継承した会員たちは、地球温暖化などの自然環境の急激な変化と暮らしのあり方、すすむ食のグローバル化・遺伝子組み換え食品など食をめぐる新たな不安要素、世界的な不況と多様化する価値観等々の社会情勢のもとで、四原則・四条件にもとづく食品作りの原点にたち、会員同志の情報交換・交流を強めるとともに本物の食の文化を次世代へ継承するために目的を同じくする消費者たちとの連携にも取り組んでいます。